「レオナルド・ダ・ヴィンチ」生い立ち!名門工房フィレンツェ弟子入り

岩はし食堂 イタリア関連

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が移り住んだフィレンツェ。それは彼が12歳のことでした。1464年当時は、メディチ家支配のもとフィレンツエは隆盛を極めていたのです。ヨーロッパ中の富が集まり、都市は、生き生きと活気に満ちていました。ルネサッンス文化は花盛。華麗なドーモがそびえる街並みはとても美しく、人々は豊かさを享受していた。

メディチ家は芸術の振興に努め、芸術を生み出す”工房”を支援していました。中メディチ家のご用達はヴェロッキオの工房。作品制作から祝祭の演出までを依頼していた工房です。ここに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は有力者である父の計らいにより、この名門工房に弟子入りしました。

万能の芸術家であるヴェロッキオは弟子たちに、画法、彫刻、金細工をはじめ、幾何学、体表解別、音楽、哲学、までを幅広く学ばせたという。

「ダ・ヴィンチ」も同様に、あらゆる物事を学び、追求する日々を重ね、特別才能を研ぎすませていきました。

美少年に成長した「ダ・ヴィンチ」は12歳でフィレンツェへ移り、やがて”万能の天才”と呼ばれるまでに。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が語った言葉!それは、「その手に魂がこめらなければ芸術は生まれない。」・・

今回は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の生い立ち、名門工房に弟子入りした、ヴェロッキオ工房、メディチ家が、ヴェロッキオにオーダーした「ダビデ像」について詳しく紹介します。

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「レオナルド・ダ・ヴィンチ」弟子入りした工房

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」弟子入りした工房を紹介します。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」弟子入りした工房は、「ヴェロッキオ工房」です。彼の師は、(1435年頃―1488年)は、イタリアのルネサンス期の(画家、彫刻家、建築家)でありました。彼の動向としては、盛期ルネサンス、フィレンツエ派であり、後援者はメディチ家であったそうですよ!

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の師匠のまた師匠は、フィレンッエのドーモの天国の扉で、一世風靡をしたお方。

「ヴィットリオ・ギベルティ」、「フィリッポ・リッピ「」などなど。世界中の中でも天才と言われている人々の名前が並んでいます。

この時代のフィレンツエの美の巨人たちが勢ぞろい。このような特別な「ヴェロッキオ工房」にはいれたとは、さすがに「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の才能は、少年の頃から眩いほどのものだったのでしょうね。

美術家を志す場合人は、若いころから徹底した職人的教育を受けていたそうです。工房に入門する者の出自はさまざま。中には、農民や豪商、公証人の息子など、さまざまな者があつまっていました。

また、「ヴェロッキオ」は弟子を、才能をよく把握し伸ばすことに長けていたということです。
フィレンツエの芸術家としてだけでなく、教育家としても第一人者でありました。驚いたことは、その後この工房には、「ラファエロ」「ミケランジェロ」を迎えることとなるのですから。この工房には前途有望な若い芸術家たちが大勢集まることとなりました。この同時期に、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ラファエロ」、「ミケランジェロ」と世界の三大巨匠がうまれることとなった。その出会いと奇跡。

わたしが、フィレンツエのルネサンス時代の魅力に取りつかれたきっかけとなったのが、フィレンツェが、誇り高く!ルネサンスを興した地であったことです。イタリアのなかでも、独自のライフスタイルは、フィレンツエ的ともいわれ、憧れの的のフィレンツエ人に興味を持ち、ルネサンスの時代に深く引き寄せらました。

花の都フィレンツェ!で、是非ルネサッンスの息吹を感じてみてはいかかでしょうか!

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「メディチ家」から注文「ダヴィデ」の顔は「レオナルド」?

「メディチ家」から「ヴェロッキオ」が注文された「ダヴィデ」像についてくわしくお伝えします。

ヴェロッキオの「ダビデ」像

とても有名な「ダビデ」像は、「メディチ家」から「ヴェロッキオ」に注文されました。この作品は1472年~1475年に制作され。高さは、126cm。ブロンズ製です。ヴェロッキオの「ダビデ」は、裸体ではありません。足元に巨人ゴリアテの頭部を置いて誇らしげなポーズです。

このヴェロッキオの「ダビデ」の美少年のいいつたえによりますと。若き弟子であった「レオナルド・ダ・ヴィンチ」をモデルにしていたといわれています。

のちにミケランジェロも「ダビデ」をテーマに彫刻を制作しています。わたしは、あまりにも多いこのテーマに、不思議におもっていたのも事実です。調べによりますと、フィレンツェでは、若きダビデが巨人を倒すという聖書のシーンを市民がとても気にいっていたとか!

この時代のフィレンツェ都市の背景にもよるかも知れませんね。どの都市国家とも気概をもってフィレンツェ人として戦っていたのですから。市民から絶大の応援を頂いていた、「メディチ家」。

また、この「メディチ家」御用達の芸術家として「ヴェロッキオ」を支持して、彼は、ルネサンスの大輪の花と咲き誇り、多くの才能溢れる弟子たちを生みました。木の幹のヴェロッキオ工房から天に向かって伸びる枝のように弟子たちの豊かな才能が開花。世界の人々を感動、感嘆させ、多くの芸術、ファッションなどの元になっているかとおもうと、「ルネサンス」の時代が後世に与えて影響ははかりしれません。

わたしが高校時代にみた美術本で、「ボッティチェリ」のヴィーナスの誕生の絵は今でもはっきりと覚えています。あまりの優美さと、美しさと、ロマンある絵の構成や、波打つエメラルドグリーンの海は、フィレンツェ人が最も親しみをもっている特別な絵だと思います。なぜなら、お母さんのお腹の中にいた時から、見たていた絵画だと友人が語っていたから!最高にうらやましいです。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の若い頃の少年時代の顔をモデルとして創られたと言われている、ヴェロッキオの「ダビデ」像は将来を美の巨匠となる、「ダビンチ」自身の将来へのモノローグであったと思います。その「ダビデ」像のように、成し遂げる強い信念さえも感じることができたから。

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まとめ

今回は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の生い立ち、「名門工房に弟子入りした、ヴェロッキオ工房、メディチ家が、ヴェロッキオにオーダーした「ダビデ像」について詳しく紹介しました。

1464年当時は、メディチ家支配のもとフィレンツエは隆盛を極めていた。ヨーロッパ中の富が集まり、都市は、生き生きと活気に満ちていました。ルネサッンス文化は花盛。華麗なドーモがそびえる街並みはとても美しく、人々は豊かさにあふれていた時期。

メディチ家は芸術の振興に努め、芸術を生み出す”工房”を支援していました。メディチ家のご用達はヴェロッキオの工房。作品制作から祝祭の演出までを依頼していた工房です。ここに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は有力者である父の計らいにより、この名門工房に弟子入りしました。

万能の芸術家であるヴェロッキオは弟子たちに、画法、彫刻、金細工をはじめ、幾何学、体表解別、音楽、哲学、までを幅広く学ばせたという。

「ダ・ヴィンチ」も同様に、あらゆる物事を学び、追求する日々を重ね、特別才能を研ぎすませていきました。「ダ・ヴィンチ」は12歳でフィレンツェへ移り、やがて”万能の天才”と呼ばれるまでに。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が語ったた言葉!「その手に魂がこめらなければ芸術は生まれない。」・・

魂をこめながら描いたそのほとんどの絵が未完成であるとで、魂を込めるとは、自分の人生と共にしながら描かなければ、もしかしたら、魂が入った絵でないのではないか!

その意味では彼の描く全ての絵は、魂をこめて創られた本当の意味での完成品であったと私は信じています。

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